凍星 >  >

我が名の許に  In this name I swear.

 遠雷が聞こえる夜。
 古城の一室、第四騎士団の士官の部屋は、常ならぬ親密さに満ちていた。
 小さな手元用の灯りだけが、寝台に居る二人の影を壁に滲ませて揺れる。
「……ヴェンシェ」
 その人にだけ聞こえる声で、胸元で囁かれるのはこの部屋の主の名。
 名を呼ばれた男は、閨の香気に沈む頭で朧げに考えた。

 声に、毒を盛るなんて事は──出来るのだろうか?

「どうかした?」
 名を呼んだ唇が、ヴェンシェの唇に重なる。
 黒目がちな恋人の瞳に見つめられて、ヴェンシェが答えた。
「きみの、声は……まるで毒か酒のようだ」
 自分の声を毒と評されても、瞬き一つで気分を害するでもなく動じない。笑みさえ浮かべて、モーラが言った。
「甘いの、苦いの?」
「……甘い。けど強い」
「ふふ。いつの間にか、回ってしまうのね」
 可笑しそうに顔を綻ばせ、ヴェンシェの胸に寛ぐ。
「ああ。…………特に、名を呼ばれると」
 頭上の恋人の眉間に癖のように刻まれる皺を見て取って、モーラが軽く身を起こす。
「名前? ……あなたの?」
 ヴェンシェが頷く。
「……あなたの名前が、嫌いなの?」

 モーラの冷涼な瞳は何もかも見透かすようで、妙に鋭い問いにヴェンシェが言い淀む。
「嫌い……というわけではないが」
 目を逸らすと、独り言のように、遠くを見ながら続ける。
「希望、などと輝かしい名を戴くと……それに劣らぬようにと生きるのは…………時々、つらい」
 眉間の皺を深くして、諦念のようなものを滲ませながら言う。
「正しく、望まれるようになど……生きられはしないのに」
 ヴェンシェの言葉が途切れると、モーラも灯りの向こうの闇を見つめて言った。
「そうね。……人間だから」
 出会うまでに負った互いの知り得ぬ傷が無数にある事を、モーラは理解していた。それを労るように、そっと恋人の胸を撫でて呟く。
「名前は最初の祝福だけど、解けないおまじないみたいね」
 まじない、という言葉に、ヴェンシェの記憶が呼び起こされる。

〝──わたしのヴェンシェ〟

 かつて、確かな慈愛をもってこの名を呼んだ人の面影が、幻のようによぎる。
 胸に去来する懐かしい苦渋に、モーラの声が重なる。
「ねえ、これはわたしの想像だけど……あなたの名を贈った人は」
 吸い込まれそうな菫色の瞳がヴェンシェに向けられる。
「どんなときも、あなたの望むとおりに生きられるように、って……つけたんじゃないかしら。誰かの希望、じゃなく」
 その言葉を聞いて、ヴェンシェの中に、鐘が鳴り響くかのごとく振動が起こった。記憶の中の寂しげな笑顔が、モーラの言葉を肯定するかのように微笑む。

 〝天啓〟……いや、〝福音〟……?

 溢れる感情を過去へ押し留めて、ヴェンシェが口を開く。
「……そうかも、知れないな。今となってはわからんが」
 寂しげに笑うと、モーラの頬に手を伸ばし、その顔を見つめて囁いた。
「……きみが、巫女のように見えるよ」
 菫色の瞳が、また可笑しそうに笑う。
「そんなに神々しいことを言った?」
「ああ」
「……邪教の教えかも」
「構わないさ」
 優しく頬を撫でる恋人の手にモーラが口づけで応える前に、艶然と尋ねた。
「姦淫は、悪かしら?」
「いや。正しく地に満ちるためだ」
 正しく、と言った口元が皮肉に笑っているのは、彼が人の血を流す武器を掲げる故か。同じく王国の為に剣を佩くモーラが、その罪も分け合うようにヴェンシェの顔を両手で包む。
 そしてこの夜幾度目かも知れない口づけを交わすと、窓を叩き始めた雨音に紛れて寝台の闇に溶け合った。

 過去は変えられず、未来は見通せない。
 今確かなものは、血の通う肌の温かさだけだ。
 蝋燭が燃え尽きようとする頃、モーラがもう一度その名を呼んだ。

「……ヴェンシェ。あなたの願いは叶いそう?」
「ああ……叶えてみせるさ」

 束の間の逢瀬に、互いに何もかも与えあって愛を交わした。
 その為だけに、夜の全てを費やした。

 雨は夜明けと共に霧に姿を変えて、古城を包んでいた。
 森閑とした空気の中、寝台で意識を取り戻したヴェンシェが目にした恋人は、誇りを纏って立つ騎士の姿だった。
「……もう行くのか」
「ええ。あなたの寝顔を見てたら遅くなっちゃった」
 ハーミットの装備から覗く菫色の瞳は、いつものように涼しげだった。
 起き上がったヴェンシェが裸のまま、武装した恋人の手を取る。
「モーラ、気を付けて」
「ええ。また、あなたに逢う日まで」
 鎧に隔たれて、体温を分け合う事は適わない。それでも恋人を胸に抱き、別れを憾む。
「……愛しているよ」
「私も。……愛しているわ、ヴェンシェ」
 冷たい鎧の奥から発せられた甘い声は、夜の残り香がした。

 モーラが発った後、ローブを羽織って窓の外を見ていたヴェンシェに、小さくなったハーミットの後ろ姿が振り向いて手を振った。それに思わず笑うと、見る間に霧に紛れて姿を消した。
 湖畔の部隊では彼女も部下たちを束ねる将校としての立場がある。それでも、いつも湖を渡る風のように軽やかだ。

 君を守りたい。
 この望みこそは、叶えてみせる。

 そう誓いを新たにしたヴェンシェの瞳に光が差す。
 薄明の夜明けに、彼もまた栄えある第四騎士団の士官としての顔に戻っていった。

 王国は、未だ深い霧の中。
 異変の片鱗さえ見せずに。

2022.10.21

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