凍星   >      >

カフネ

 群島史から紋章砲が消えた後。
 何処とも知れぬ、島の夜。
 その日の二人の寝床。

 どこからか虫とも鳥ともつかぬものの鳴く声だけが聞こえる。
 肌を求め合ったあとの睦言もとぎれとぎれになる頃、ネリスはヤールの長い髪を指で梳いていた。
「……そろそろ切るか」
 大人しくされるがままになっていたヤールから不意に漏れた言葉に、ネリスが重たいまぶたを開く。
「また……先の方だけ?」
「いや。……全部」
 その答えに、指先が止まる。
「……いいの?」
「ああ」
 困惑するネリスの目を覗き込んで、ヤールが続ける。
「ほんとはあの夜切ろうかと思ってた。誰かさんに見つからなきゃな」
 そう言って口の端を上げて笑う。
 ネリスの脳裏に、見慣れぬ旅装を身に着けたヤールを問い質した「あの夜」が蘇ってくる。全てを置いて、ヤールと行く道を選んだ、あの夜。

「おまえさん整えてくれるか?」
 ヤールの問いかけに意識が引き戻される。
「……はい。でも」
 答えながらネリスが口ごもる。
「うまくできるか……。ヤール……さん、ほど、器用じゃないので」
 それを聞いてヤールがまた笑った。
「最悪坊主だな」
「そ、そこまでは……たぶん……」
 そう言うと、ヤールの頬をなぞるようにして、顔にかかる銀髪にまた指を通す。

「……せっかく、……撫でられるようになったのに」
 ネリスのささやきに、意外な顔をしてヤールが聞いた。
「……触りたかったのかよ?」
「少し……」
 答えるネリスの声が遠くなってゆく。碧色の目が、ゆっくりと閉じられる。
「やだ、私……」
 半分夢の中にいる声に、ヤールが耳を澄ます。
「……いつから…………ヤールさんの事を好きだったんだろう………………」
 唇からかすかに漏れる言葉に、一瞬理解が遅れたヤールが、
「…………いつからだ?」
 と尋ねてみても、返ってきたのは寝息だけだった。

 ヤールが小さく溜息をついて天井を見上げる。
 そして己を振り返ってみる。
 男は単純だから、たぶん最初からだ。
 会ってみたらあんまり美人だから、提督のお手付きかと疑ってみたあの日。
 部下だから。面倒くさい事になるから。あれこれ並べ立てたって、何のしがらみも無くなったら……結局は手放せなかった。

「……いつからだよ?」
 もう一度聞いてみたが、夢の向こうから返事は無かった。
 代わりに、ぴくりと動いたネリスの手が、またかすかに髪に触れた。
 その仕草に力なく笑うと、ヤールも目を閉じて夢の中へとネリスの後を追った。
 寝静まった壁の向こうで、虫とも鳥とも違うものが喉を鳴らした。


2022.9.27

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