凍星   >      >

イアル野の子ら

「わたしたち、きっと天国に行けませんね」
 窓の外の暮れゆく街並を見つめ、ネリスが何気なく呟いた。
 その景色は生まれた島とも、かつて所属していた軍が居る島とも違う。同じようで異なる土地の空気は、少しの所在なさを感じさせた。
「……かもな」
 ベッドに横になっていたヤールが鷹揚に答える。
 紛れるのが容易という理由から、群島の中でも人の往来が少なくないこの島に着いて数日。今日は屋外の舞台で演じられていた寸劇に足を止めた。
 物語の筋書きは、死後の審判を受ける善人と悪人、というようなものだった。善悪を測る天秤に魂を乗せられる瞬間、息を飲む子供たちの後ろで、美しい連れは罪の意識を甦らせていたのだろう。

 そんなネリスの言葉に、それは天の門番のお裁き次第だろうよ、と言おうとして、ヤールは一体誰が自分たちを、何の裁量で裁くのか、と馬鹿らしくなった。
「もし地獄に落とされたって……」
 体を起こして、ネリスの方を向いてベッドに座る。
「その地獄を、もうこの世に呼ばないためにやったんだ」
 そうだろ?と言うように眉を上げ、少し顔を歪めて笑う。
 その姿だけ見れば、地獄からやってきた使いがネリスを誑かそうとしているように見えなくもない。だが、ヤールの虚飾のない言葉は、甘い誘惑よりも救いとなってネリスの心に響いた。

「……はい」
 声を詰まらせながらも、そうはっきりと答える。
「たとえ地獄に行っても……」
 窓辺から離れ、薄暗くなってきた部屋でヤールの隣に腰を下ろす。
「あなたが、一緒なら」
 ネリスが無条件に自分を慕うとき、ヤールの罪悪感が大きくなることを、ネリスは知らなかった。

 ──その夜のこと。
 ネリスは風の音を聞いた。
 遠くで鳴る雷と、時折強く叩き付ける雨。
 幼いネリスは怯えて、母に貼りついてその服を握りしめる。
 優しい声で父が言った。
 悪いものは、みんな離れに閉じ込めてしまったよ。
 ネリスが不安げに見上げると、父は手にした古い鍵を見せて言った。
 本当さ……ほら。
 黒い光沢をまとうその鍵を、ネリスに差し出す。
 さあ、鍵は、おまえが持っておいで……。

 悪いものは、みんな……
 父の言葉を反芻していたネリスが、不意に振り返る。
 そこは嵐に囲まれた家の中ではなく、ただ一面に紺色の空が広がっているだけの場所だった。
 そこで大きな樹が金色に燃えている。
 星が輝く夜空に、燃え落ちた枝の先が光の塵になって舞う。
 その光景は、恐ろしいというよりも何故か悲しく見えた。ネリスは悲しみの中に、不思議な安堵を覚えてそれを見ていた。

「ネリス」
 呼ばれて、自分が泣いているのに気付いて目を覚ます。
 ベッドの上で向かい合ったヤールが、そっと親指で涙の道を拭った。その筋張った手を裸の胸に抱き、睫毛を濡らしたまま微笑む。
「……大丈夫。もう、怖くない」
 みんな、あるべき所に居る。
 わたしたちも。

 その夜は、全ての紋章弾が灰燼に帰してから、二つ目の満月の夜だった。


2022.8.4

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