凍星   >      >

怒れる竜の眠る

 血の匂いがする。
 群れを成して襲い来た獣たちが残らず屠られた山道に、海と言っていい程の血溜まりが拡がっていた。
 事を終えた両の手が無造作に剣の血を払う様を見て、ネリスは自分が恐怖を覚えている事に気付いた。
ヤールが右手に宿す乱れ竜の紋章は頻繁には発現させない。そう出来ないのだと言ってもいた。しかしそれを補う紋章を対の手に宿した今、乱れ竜は鎮まる事なく怒りのままに暴れてみせた。
 斬り伏せたものたちを尻目に息をつくヤールの腕は火を吐く竜のように赤く、隆起した筋肉に血管が走っていた。

 過日、珍しい紋章を見留めたレヴィにその竜は怒りを糧にするのだと教えられ、そんな気はしてた、とヤールは言った。怒りの紋章もまたありふれたものではなかったが、様々な人や物が集まる王子の元には存在していた。その王子の純粋な好意や好奇心、もしくは軍師の思惑により、怒りの紋章はヤールにもたらされた。
 かくて乱れ竜は解き放たれたが、ネリスにはヤールがそれを楽に操っているわけではないように見えた。双剣を鞘に収める横顔は強張り、青筋を立ててさえいた。

 その晩、いつもより口数が少ないように思えたヤールのベッドの前へ、迷った挙句にネリスが顔を出した。
「……大丈夫ですか?」
「何が」
 素っ気なく答えるヤールの顔を覗き、確かに疲労の色を見て取ると、ネリスが屈んで視線を合わせ真剣な面持ちで訴える。
「その、紋章…………やめてください。消耗してるじゃないですか」
(それに、怖い)
 洗い晒しの長い髪の向こうから覗く目は昏い。鼻を鳴らすヤールに、ネリスが重ねて言う。
「……いつものヤール殿じゃない」
 言い終わるか終わらないかの内に、急に伸ばされたヤールの手がネリスの首元に触れた。
「!」
 その手が襟首のボタンを外した事に気付きネリスが慌てるが、立ち上がろうとしたところで腕を掴まれ体勢を崩すと、そのままヤールのベッドへ引きずり込まれる。
 ベッドに仰向けにされて驚きのあまり目を見開くネリスを、獲物を検分する獣のような目で見ながらヤールが嗤った。
「男の寝床に来るってのはそういう事だろ」
 ヤールの言っている意味が解らない訳ではない。だが、それを理解するのをネリスの全てが拒んでいる。
「おまえ、いい匂いがするな」
 全身が硬直して声も出ないネリスの、はだけかけた胸元に鼻を寄せたヤールの息がかかる。
怖い。違う。こんなヤールは知らない。混乱と恐怖に竦むネリスの脇腹にヤールの右手が触れた。シャツの裾を捲りあげようとしながら、ネリスの顔の上に鈍い銀髪と低い声を降らす。
「こっちが本当の俺だったらどうするよ?」
 ネリスに答える術もない問いの後ろから、突如乾いた音が部屋に響いた。誰かが再び扉を叩く音がヤールの注意を逸らす。後方を睨んだヤールがのそりとベッドから降りて扉を開くと、動転して起き上がれないネリスの元にベルナデットの声が聞こえた。
「遅くに悪いわね。明日の事なんだけど……」
 頭を掻きながら用件を聞くヤールの様子を見たベルナデットが眉を寄せて笑った。
「本当にお疲れみたいね」
「ええもう」
 片頬を引き攣らせたように笑うヤールの股間が屹立しているのを見てか見ずしてか、何かを察知したベルナデットが左手の指でヤールの鼻先を指した。その瞬間、指先から水魔法が迸りヤールの頭から全身を冷たい水が洗い流す。流水の紋章の魔法は部屋の空気も浄めるように流れて、やがてヤールの髪の先に幾つかの雫を残して消えた。
「ネリスに乱暴するんじゃないわよ?」
 簡潔に言付けるベルナデットに、顔を拭いながらヤールが答えた。
「…………はい」
「いい子ね。おやすみ」

 扉から流れ込んだ魔法に我を取り戻したネリスがベッドから降りる。こちらへ戻ってくるヤールが犬のように頭を振ると、
「寝る」
 とだけ発した。
 その声に先程までの恐ろしさを感じない事に気付いて、ベッドから離れながらネリスが呟いた。
「……おやすみなさい」
 自分のベッドへと戻ったネリスがぎこちなく腰掛けると、衝立の向こうで寝転んだヤールが息を吐く音が聞こえた。そのまましばらく動けずにいると、やがてヤールのいびきが聞こえてきた。普段はあまり聞くことがないその音に、ネリスが納得する。
(……やっぱり疲れてる)
 だから、あれはいつものヤール殿じゃない。
 そう自分に言い聞かせながら、ネリスがそっと明かりを落とした。確かに怖い思いをしたが、部屋を出ることはせずにネリスは自分のベッドへ横になった。
(……悪い夢を見ていないといいんだけど)
 安らかではなくとも、いびきをかいているという事は眠っている証拠だ。それに安堵して、ネリスも目を閉じる。さっき見た、恐ろしい目をしたヤールの事を思い出さないようにして。

 翌日、昼下がりの湖城。
「返上してきた」
 ヤールがバツの悪い顔で、耳を掻きながらその日初めて顔を合わせたネリスに告げた。
 見事に寝坊したヤールが記憶と寝床に残った碧い髪の毛を繋ぎ合わせ状況を理解すると、身支度をしてすぐさま怒りの紋章を封印球へと戻しに行った。
 王子に賜ったものを昨日の今日で突き返すのは情けなかったが、毎夜あんな事になるくらいなら、己の体裁を捨てるなど容易い事だった。
 ヤール自身も暴れる竜を制する苦労があったが、何よりもネリスがその犠牲になるなどあってはならない。昨夜の後ろめたさを拭えずに、言い訳めいてヤールが声を絞る。
「夢見が最悪なんだよ」
「…………どんな?」
 ためらいつつ訊ねたネリスに、ヤールが低く答えた。
「……聞かないほうがいい」
 息苦しい夢の中で、怒りで肥大した竜の力は大勢の誰かと何かを殺して、たった一人を犯した。
 思い出したくもない夢を追い払うように目を覆って、ヤールが独り言のように呟いた。
「何事も、程々がいいってな……」
 昨夜見たヤールも悪い夢だったのだろうか。忘れようにもできない、自分を組み敷いた男は本当に目の前の上司なのか?
「で……その、すまなかった。昨日……」
「いいんです」
 ヤールの言葉を遮るようにネリスが言うと、目線を落として続けた。
「いつものあなたに戻ったなら」
「………………すまん」
 部屋を替わる事も提案しようとしていたヤールがそれ以上言えなくなって、ただ謝罪を付け加えた。

 まだ忘れる事のできない昨夜の、あれが本当のヤールでなければいい、とネリスは願った。


 

2024.1.11

BACK