凍星   >      >

星の定め destino della stella

 その部屋、というには大きく異質な空間にネリスは初めて足を踏み入れた。
 思わぬ成り行きで加わることになったファレナ女王国の王子の軍勢は、国のほぼ中央に位置するセラス湖を拠点としていた。セラス湖の城、というからには湖畔にあるものかと思えば、水中から顔を出すかのように建つ遺跡であったことにネリスは驚いた。
 永らく湖の底にあったという城は、未だ水位が下がっている途中らしく、ヤールなどは好奇心で水に顔をつけて城の下層を覗いてさえいた。
「潜ればよく見えそうだな。水も綺麗だし」
「やめてください」
 泳いで探索に行きかねない上司を諌めながらも、城の異容にはネリスも興味を引かれた。空いた時間には自室(先に王子の元へ参じていたベルナデットに、ヤールと相部屋で問題ないわよね?と抗いようもなく決められた)を出て城内を歩いてみるうち、やがて最上部の部屋へ辿り着いた。
 そこが「封印の間」と呼ばれることは後に知った。

 陽の入らない空間に目が慣れてくると、何も無いかのように見えた室内の奥に人の背丈よりも大きな石板が現れた。同時に、その隣に佇む黒衣の人物も視認されて、ネリスは歩を止めた。
「……失礼しました。立ち入ってはいけなかったでしょうか」
「構いません」
 全身を覆う漆黒から覗く顔色は驚くほど白く、精緻な容貌がもたらす冷たい印象が、その声からも感じられた。
「わ……私は、」
 ネリスがどのように名乗るべきか一瞬考える間に、深く冷たい声が応えた。
「知っています」
 既にこの城のどこかで会っただろうか?それにしては忘れようもない印象の女性を前にネリスが戸惑っていると、
「地退の星……」
 と、聞き慣れぬ言葉を告げる。
「失礼、今、何と……」
 ネリスの問いには答えず、闇色のローブに包まれた腕がつと傍らの石板を指し示す。
 ネリスがますます混乱しながらもその白すぎる指先が差す方へ目を移すと、石板の最上部には王子の名前があり、その隣には「天魁星」と刻まれている。見れば石板一面に星の名が配され、人名が記されるらしき箇所には空欄もあればネリスの知った名前も知らない名前もあった。
 どちらかといえば空欄が目立つ石板を目で追うと、不意にヤールと自身の名が現れた。その隣には、それぞれ「地進星」「地退星」と刻印されている。
「地退の、星……」
 ネリスが黒衣の美女を振り返って訊ねる。
「殿下に、星の紋章を宿した方が石板を管理していると窺いました。あなたが……」
「ええ。天間の星です」
 ネリスがその星の名を石板に探す。
「ゼラセ……さん」
 その時、入口から足音と共にネリスも聞いたことのある声が響いた。
「邪魔するよ」
 逆光の中から歩み寄る影は、近付くにつれて次第にあでやかな容姿を現した。
「サイアリーズ様……」
 ネリスが頭を下げると、声の主は笑みを浮かべてそれを制した。
「いいんだよ、ここは王宮じゃないんだ。それに、あんたたちも……ああ、ほら、あった」
 傍らの石板を眺めて言う。
「へえ、あんたたちの名前はここかい」
 複数形で示された箇所には、確かにネリスとヤールの名が続いて記されていた。
「あの、この石板は……?」
「約束の石板」
 サイアリーズが凛とした声で答える。
「と、いうもんらしい。あいつが説明する気がなさそうだからあたしが教えるけど……」
 と、ゼラセの方を一瞥して続ける。
「あの子をさきがけの星として、ここに集まった者たち……あんたたちも含めてだね。それは、宿命の星なんだとさ」
「宿命……」
 成り行きでここにやってきたネリスには唐突で大仰な言葉に聞こえた。
「見ての通り、誰も彼もってわけじゃない。そして、誰かが決めたもんでもなく……そう定められているんだってさ」
 確かに石板は一基のみで、およそ百人分ほどの名前しか記せそうにない。
 そこに「定められて」自分たちの名があると言う。
「誰が決めたわけでもなく、ですか……?」
 ネリスが目を丸くして問うが、ゼラセは答えず、サイアリーズも肩をすくめる。
「ほんとに、どういう力なんだか……不思議なもんだね」
 石板をじっと見つめていたサイアリーズがネリスの方を向いて、朗らかに声を掛ける。
「ま、ここに刻まれたからには、あの子の力になってやってくれよ」
「……はい。私の力の及ぶ限り、殿下をお助け致します」
「頼んだよ」
 ネリスの真摯な答えに満足そうに笑うと、サイアリーズが踵を返す。ゼラセに何か用があったのではないかとネリスが振り向くが、当のゼラセは気に留める風もない。
 ふと思い立ち、ネリスがサイアリーズの名を探して石板に目を走らせる。だが、そう多くない記名を下辺まで辿って訝った。
(ない…………?)
「あの、ゼラセさん!」
 呼ばれてゼラセが僅かに眉をひそめ、まだ居るのですか、とでも言いたそうな顔をしたが、それにも構わずネリスが続ける。
「サイアリーズ様の、名前は……?」
「ありません。今あらためたのでしょう?」
 素っ気ない返事に、ネリスが重ねて問う。
「なぜ……ですか」
 ゼラセが目を閉じて、愚問と言わんばかりに答えた。
「そう定められているからです」

 その晩。割り当てられた居室で、ネリスは衝立の向こうのヤールに封印の間での出来事を聞かせた。
「気に入らないか?定めとか、そういうの」
 腑に落ちない様子の部下にヤールが尋ねる。
「……わかりません。ヤール殿は、信じられるのですか?」
 誰も決めてはいないのに、宿命の星として来たるべくして来たなどと。問い返すネリスに、ヤールが考えながら言葉を返す。
「まあ……目の当たりにしたら、信じるというか、認めるしかないよな。実際、殿下は魁の星らしい輝きってえのか、そういうのがあるし。あの黒ずくめの美人だって……どっか尋常じゃない気配がするしな」
 適応力があるというのかどうか、深く疑問に思っていない風の上司にネリスは歯痒さを感じた。
「ただ、俺は」
 続くヤールの声にネリスが耳をそばだてる。
「人が後付けで言う〝運命〟だとかは、世迷い言だと思ってるけどな」
「……確かに、そういうのとは……違う気がします」
 宿命と言われても、お仕着せの作為のようなものはネリスも感じてはいなかった。
 今、ここで起こっている巡り合わせ。それを定めと言うのだろうか。
「にしても、大浴場に寝床付きの定めならいいもんだな」
 あっけらかんとしたヤールの言葉に、ネリスが呆れて釘を差した。
「……遊びに来たんじゃないですからね」

 明かりの絶えた部屋で、夢とうつつのあわいに漂いながらネリスは考えていた。
 この世を形作ったという紋章が、その性質に基づいて争うのなら。
 自分たちもまた、砕けた創世の紋章の欠片たちのように、陣営に分かれて戦うのだろうか。
 それを、星を司るという……ゼラセのような存在には予期できるとしたら。
(……なら、それも仕方のない事なのかも)
 定めと信じるよりは、諦めに似た結論を得ると、静かに寝返りを打った。
 自分の中に一応の答えを見出したネリスだったが、「約束」の名を冠す石板に、衝立の向こうの男と並び記された事実は、未だに不思議に思えてならなかった。
(サイアリーズ様は……殿下にとても近しいから、記されないのかも)
 重なるほど近くにある星が、一つの明るい星に見えるように。
 そんな希望的観測を抱いて、ネリスがまだ慣れない寝心地のベッドに丸くなった。
 窓の外には、星たちが規則正しく夜の空を運行していた。


2023.5.8

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