凍星   >      >

吾を救けよ  Adiuva me

私に宿る烈火の紋章よ
森を焼き地を燃やし天を焦がす炎よ
大地の底より来て山を穿つらぬ
頂より怒りとなって迸れ

 ネリスの祈るような詠唱に喚ばれた炎が、迫る騎兵部隊の先駆けを舐めて爆ぜた。炎を避けて突進しようとする兵に矢の雨が降る。
「ネリス殿!!下がって!!」
 後方からレレイが呼ぶ声がする。
 まだだ。まだここで時を稼がなければ。
 騎馬隊に距離を詰められては弓隊は為す術がない。
 躍る炎が消えぬうちに、ネリスが次の詠唱を始める。戦場に現れた炎の壁が破られぬよう、立て続けに魔法を放つ。だが、人が全力で走り続ける事ができぬように、それはネリスの体から急速に力を奪っていく。

 炎の紋章よ、どうか……
 私の血を燃やしてでも

 波のように隆起した火炎が、敵の兵と騎馬を飲み込む。ネリスの魔力を全て炎に換えてしまったその時、重い蹄の音と共に鬨の声を上げて援軍が現れた。
「女のケツを追い回してんじゃねえぞコラァ!!!」
 野太い声で敵を威圧するのはリンドブルム傭兵旅団の頭だ。彼が伏兵の追討に出てくるのならば、大局は決しているのだろう。紋章の起こした火が戦塵に紛れて燃え尽きようとした頃、ネリスが膝からその場に座り込んだ。
「ネリスさぁん!!」
 後方の部隊からルゥが転がるように駆けてきて、ネリスの体を支える。
「大丈夫、立てる?!」
「……すみません、ルゥさん……」
 肩を借りてどうにか立ち上がり、弓兵隊に合流すると、陣の後方に座らせられる。前方では戦闘が続いている筈だが、ネリスには耳鳴りしか聞こえない。視界も狭く、暗くなる。全ての感覚が途絶えようとした刹那、頭上から聞き慣れた声が降ってきた。
「息を吸え、ネリス、さあ!」
 反射的に呼吸をすると、目の前にヤールの顔が現れた。別の部隊に居た筈なのに、とネリスが混乱を顔に浮かべる。
 突如として上がった火柱に嫌な予感がして馳せて来たヤールの勘は当たっていた。魔法使いの多くない弓隊で、あれだけの炎を独りで喚んだことに呆れつつ、ネリスの意識を保とうとする。
「ネリス……わかるな?息をしろ、ほら」
 目を閉じ、言われるままに呼吸をしようとするネリスの体が、不意に清涼な風に包まれる。
(冷たい……水…………?)
 それを感じながら、ネリスの意識がゆっくりと闇に落ちていった。ヤールの服を握りしめていた指先が解けて、魂が抜けるように。

「あらあら……魔力が空ね」
 戦場に出ていた筈だがその露出した肌に傷の一つも見当たらないジーンが言う。運ばれて城に戻っても目を覚まさないネリスを、ヤールが医者の替わりに紋章師に診せていた。
「熱があるんですが」
「炎の紋章というのが強く作用しているわね。でも、体力と魔力が戻れば、良くなるわ」

 烈火の紋章は彼女と仲がいいのね、というジーンの言葉を反芻しながら、ヤールが城内の自室を目指して歩く。その腕に抱えたネリスの体は熱い。
(仲のいい紋章が主をこんなにするかよ。こいつじゃあるまいし)
 自分の右手の紋章に毒づいて、ネリスを抱え直す。意識のない身体は重く、それを慎重に運ぶヤールの体にも汗が滲む。
 どうにか部屋へ着くとネリスのベッドに降ろし、靴を脱がせて横たえる。ネリスの頬に掛かった髪を避けてやり、首筋の脈を確かめる。規則的な拍動があるが、それは明らかに速い。ヤールが疲労感と共に溜息を吐いた。
(なんて戦い方をすんだよ……)
 戦場で起こった不測の事態を思い返してヤールが頭を掻く。予期せぬ伏兵から部隊を守ろうとして彼女なりに最善を尽くした結果なのだろうが、どこかで掛け違えば落命していただろう。あの場で文字通り全ての力を使い果たしてしまったネリスに畏怖すら覚えて、ヤールが呻く。
「……おまえも燃やされちまうぞ」
 心なしか険しいネリスの顔を覗き込むと、熱のせいか厚い唇が殊更目に付いた。
「俺の魔力じゃ足らんだろうが……」
 腰を落として顔を寄せたヤールが言い訳めいて呟くと、目を伏せて詠唱を始めた。

水の紋章よ
炎を鎮め、血を冷やして巡れ……

 額に宿した水の紋章から、冷たく清浄な流れが現れネリスの体を包んでいく。それに反応してかネリスがすぅ、と息を立てた。
「ヤール殿…………?」
 薄く瞼を開いたネリスがかすれた声を出す。
「大丈夫だ。眠れば良くなる」
 ネリスの瞼がゆっくりと閉じると、再び眠りに落ちていった。その寝息は先程までより安らかに感じられ、ヤールがまた一つ溜息をついた。

 ネリスをも灼こうとした熱は、やがて夜の底に醒めていった。
 静かな水の中に抱かれていたような心地の眠りから覚めてネリスが視界を取り戻すと、そこにヤールの姿がある事に気付く。
「ヤール殿…………」
「……熱は、だいぶ下がったな。気分はどうだ?」
 手首に触れたヤールに訊ねられ、ネリスが回らない口を開く。
「体が……重いです。あの……私、昨日……?の記憶があまり……。戦場で倒れた、のですよね」
「そうだ。魔力が底をついてな。戻ってきたか?」
 言われてネリスが左手の紋章の気配を確かめる。
「……はい、たぶん。充ちてはいませんが」
「リンドブルムがおまえさんの部隊を助けた。殿下は勝ったよ」
「…………申し訳ありませんでした」
 帰結を教えられたネリスが自身の失態を侘びたが、
「助かったんだ、まずは……良かったよ」
ヤールは責めも慰めもせずそう言った。戦い方はともかくとしてな、と内心苦く思うヤールにネリスが言う。
「……ありがとうございました……あの、付いていてくれて」
 昨夜の記憶があるのかないのか判然としない台詞に、ヤールがさっぱりと答える。
「いいさ。何か食えそうなら粥でも貰ってくるか?」
「……起きられます」
「いいから寝てろよ。まだ怠いんだろ?」

 ネリスを制して部屋を出たヤールが、粥を届けたら俺も飯と風呂に行くかな、と勘案しながらあくびをする。丁度そこへベルナデットが姿を見せた。
「お疲れ様。ネリス、どう?」
 くたびれた様子のヤールと違い、ベルナデットは朝から背筋が伸びて見えた。どうもこの一族は非常時ほど生き生きしているようにヤールは思えてならない。
「ええ、起きてます。本調子じゃないが、熱も下がってきたし大丈夫でしょう」
「良かった。少し顔を見てくる」
「俺、粥を貰ってくるんで……見ててやってください」
 ベルナデットと別れたヤールが食堂へ向かいながら、寝不足と疲労にまみれて考える。
(俺は、ただの上司だから……おそらくあの人がするように、抱き合って、おまえが生きてて良かった、とか言ってはやれない)
 ヤールが耳を掻いて鼻を鳴らす。
 だが上官として、戦場で自己統制ができていない、などと叱責する気にもなれなかった。戦の渦中のこの国に来たのは王子の誘いに乗った自分の一存であったし、軍人といえどネリスは人を殺した事がなかった・・・・かもしれないのだ。ここへ来るまでは。
 相変わらず俺は半端者だな、と自覚しながら首を鳴らし、ヤールがあくびのついでに呟いた。
「あぁ……、あと……湯桶も要るかな」
 遺跡の城の中にも、変わらず登り来る陽の光が満ちようとしていた。


(おまけ)

「ネリスが無事でほんとに良かったわー。私も夜中に流水かけに行ったの覚えてる?」
「そうだったんですか!?」
「私の指揮が至らぬばかりに……ご無事で何よりでした」
「ネリスさんありがとー!!!」
「レレイ殿、ルゥさん、そんな……」
「よう、間に合ってよかったぜぇ」
「ヴィルヘルム殿……本当にありがとうございました」
「こいつは軍師に言われるまでもなく飛んできやがったからな」
「んだよミューラー当たり前だろうが。お礼はいつでも歓迎だからな?」
「どうも部下が世話になりまして。報酬については殿下に請求してくださいよ」
「あぁ?お前より俺の方が先に行っただろ?」
「え?ヤール殿も……?」
「まあお前もえらい勢いで飛んできたがなぁ?」
(そういえば……あのとき…………)
「ネリス、また熱出てる?」
「っか~〜〜なんだよつまんねえなあ。王子さんにふっかけてやるか」
「あ、あたしたちもお邪魔かなあ?」
「……そのようですね」
「じゃ、後は二人で話し合ってね?」
「いやちょっと、待っ……」
「ヤール殿…………お話が、あります……」


2023.5.13

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