凍星   >      >

Salvami l'ultimo ballo

「舞踏会、……ですか」
「そう。ささやかな、とは書いてあるけど」
 ベルナデットが手にした何やら良い香りのする招待状は、アーメス西海神将ことシュラ・ヴァルヤが差出人らしい。
 ネリスが手渡された書状に目を走らせると、ここセラス湖の城で催される女王国の内乱終結を祝う宴において、微力ながら華を添えたいというシュラの意向を、女王と王兄が許した旨が流麗に記されていた。
「出るわよね?」
「…………無理です」
 ベルナデットの問いかけに、まるで良くない知らせを受け取ったかのような顔でネリスが答える。
「皆様平服でお越しください、って書いてあるじゃねえか」
 横から覗き込んだヤールの台詞に、ネリスが振り向いて反論する。
「そういう問題じゃなくて……!あの、踊らないなら、壁際に居ればいいんですよね?」
「そりゃ贅沢な壁の花だな」
 さらに表情を曇らせて、ネリスが嘆く。
「だって……踊りとか、お芝居とか、そういうの、できないんです!」
 予想外に拒否反応を示すネリスの様子に、ベルナデットとヤールが顔を見合わせる。
「そうかねえ」
「そんなにセンスが悪そうには見えないけど、ねえ?」
 そういうもんはだいたい形が決まってるんだ、コツさえ掴めばいけるんじゃないか?と他人事のように言うヤールに、ネリスが恨めしげな目を向ける。
「…………そういうヤール殿は、できるんですか?」
 またベルナデットと顔を見合わせたヤールが、耳を掻きながら答えた。
「俺も向いちゃいないが、できるかできないかで言えば、まあ」
 その言葉の意外さにネリスが目を丸くする。
「昔の話だよ。……ベルナデット様に、何でも練習台にさせられたもんだ」
 この上司のこういうところが嫌いなのだ、とネリスが肩を落とす。
 見かねたベルナデットが明るい声をかける。
「大丈夫よ、男性がリードするものだから」
「ほんのちょっと、付き合い程度に合わせられればいいんじゃないか?」
 壁の花だと余計に悪い虫が群がってくるかもしれんぞ、というヤールの脅し文句ともとれる台詞に、ネリスがいよいよ進退窮まる。
「そうと決まれば練習しましょう」
「!?」
 ネリスとしては何一つ納得がいかなかったが、それ以上は抗いようがなかった。

 そして文字通り血の滲むような特訓が始まった。血を流したのは主にヤールの爪先だったが、ネリスもあまり意識したことのない部位の筋や腱に違和感を感じていた。
「戦は終わったのに、怪我するなよ」
「だから、向いてないんです!」
「はいはい喧嘩しないの」
 時にドレミの精を一人二人従えて、ネリスの優雅とは言い難い短期集中レッスンは続いた。

 そしてあっという間に迎えた祝宴の日。
 肩を出した筒型の簡素なドレスに、透ける紗に羽根模様の刺繍が施されたアーメス風のショール(苦闘をどこからか聞きつけたシュラに贈られた品)を纏ったネリスが、ヤールに開口一番詰め寄った。
「その、礼服!持ってきてたんですか?!」
「まさか。急いで調達したさ」
 ヤールが着ていたのは、群島諸国連合海軍の正規の礼服だった。
「だったら、私の分も……!」
「おまえさんは、そうはいかんだろ」
「せっかくだものねえ」
 群島とファレナ双方の様式を取り混ぜた、華美ではないが気品のある装いをしたベルナデットが笑う。

 やがて歓声に迎えられて、王兄となった王子と冠を戴いたリムスレーアが姿を表す。そしてこの場に立てなかった者たちへの弔意と、ここに集った者たちへの感謝を述べて、宴の始まりを告げた。
 金糸の躍る衣装にも劣らぬ優美さでシュラが促すと、コルネリオの指揮の元、太陽宮の楽士たちとシュラの擁するアーメスの楽隊、そしてドレミの精たちという奇妙な混成楽団が曲を奏で出す。
 戦の終わりを鮮やかに告げる音色に、人々が手を取り合い広間の中央へ歩み出る。

 瞬く間に目の前に差し出される男たちの手に戸惑うネリスに、ヤールが目配せで背を押した。ベルナデットもいの一番にやってきたワシールにエスコートされてゆく。あからさまにおぼつかない足取りで出てゆくネリスの後ろ姿を笑いながら目で追っていると、アーメス風ではない正真正銘のアーメス美人がヤールの眼前に現れた。
「ご機嫌よう。ご参加頂けて光栄ですわ。踊って頂けますかしら?」
 美女からの誘いを断るわけにはいくまい。なるほど戦後外交は早くも始まっているということか、と彼女の主の手腕に敬服しながら、俺で良ければ、とヤールがシャルミシタに手を差し出す。

 大広間の中を代わる代わる連れ回され目が回りそうなネリスは、練習の成果を発揮するどころではなかった。ファレナの地方ごとの舞曲だけでなく、あらゆる国や地域の楽曲を切れ目なく奏でる楽士たちを、皆が囃しながら思い思いに踊る。
 だが、ネリスには知らない音の波に器用に乗ることなど到底できそうもなかった。しかし慌てて謝る本人と裏腹に、ネリスに足を踏まれた者たちは、皆一様に嬉しそうな顔をした。
 唯一見事なリードで優雅に踊り切るかに見えたのは主催たるアーメスの将だったが、ネリスの最後のステップが誤魔化しようもなく彼の足の上で止まった。その彼も、大仰に無念がりながらもネリスに微笑みかけた。
「恋路を邪魔した罰かな。どうぞお幸せに」

「うう……本当に、申し訳ないです…………」
 まるで泣き上戸のように、ネリスが肩を落とす。
「まあ、いい思い出だろ」
「皆喜んでたものねえ」
 晴れ晴れとした顔で心地よい疲労感に浸るベルナデットが二人を振り返って言った。
「あなた達も広間で一緒に踊れば良かったのに」
 ネリスがヤールの方を見て口ごもる。
「いえ……その」
「もう充分踏まれましたから」
 ヤールの素っ気ない言葉に、ネリスが反発する。
「そっ……それは、しょうがないじゃないですか!」
「もうちょいいける気がしたんだけどなあ」
 ネリスの様を思い起こして、いつものゆるい調子でヤールが耳を掻く。
「でも、頑張ったわよねえ」
 ベルナデットがまた心底楽しそうに笑った。

 そうして、最後にまた一つこの国での思い出を残して、その日は暮れていった。
 ネリスが慣れない衣装を脱ぎ去ろうとした頃、ドレミの精たちが揃ってぷりぷりとした様子で乗り込んできた。聞けば、あれだけ練習に付き合ったのに本番で踊る姿を見せなかった、と抗議しにやってきたという。
 かくして、めかし込んだこそばゆい格好のままでヤールと二人踊る羽目になった。

 終わらない宴席が続く城の片隅の、湖を望む一角。
 暮れかけた黄昏色の空の下に整列したドレミの精たちが一斉に息を吸うと、ネリスの耳に懐かしい群島の曲が奏でられた。詩人エチエンヌの優しい歌だ。
(またべったりした曲を……)
 内心苦々しい思いをするヤールがネリスに手を差し出すと、真っ直ぐな視線がヤールを捉えた。
 最後だからちゃんと踊ろう、という生真面目さなのか、じっと見つめる翠色の瞳にヤールがたじろぐ。
「……いいか」
「はい」
 ネリスの腰に手を掛け、ゆっくりとヤールが促すと、それを追ってネリスが歩を合わせる。習いたてのステップも、よく知った曲ならどうすればよいのかわかる。
 腕に触れるネリスの体から緊張が解けてゆくのがわかり、ヤールがふと笑った。ネリスも自分が踊れている感覚に、不思議そうに笑みを返した。
 どれくらいの時が経ったのか、ドレミの精たちの息がゆっくりと収束すると、二人もその場に静止した。
 息をつくネリスに、突然ドレミの精たちの喝采が浴びせられた。多様な楽器の音色を真似て、やんやと二人の周りを跳ね回ると、そのまま満足げに引き上げていく。
 賑やかな声が遠くなっていくのを、ヤールと言葉もなく見送った。
 そしてすっかり日が暮れた湖に向かって座り込むと、両手で頬を覆う。
「わ……わたし、踊れました…………?」
「ああ、完璧だ」
 よかった…………と小声でつぶやくネリスがどんな顔をしているのか、覗きたい思いに駆られるヤールだったが、そうはせずにその背を見ていた。

 遅れて開かれた二人だけの舞踏会は、ここだけの秘密の思い出として、ひっそりと群島に持ち帰られた。 


2023.3.27

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